アラフィフを超えた私は、長い時間自分と付き合ってきているので、自分の思いや行動の癖、特に
【なぜだかそうなる、なぜだかそう思っている、なぜだか同じことをして、同じことが繰り返し起きている】
という謎たる部分を理由もわからず繰り返してきている自分にこの年になって向き合おうという気持ちになりました。
そんな時、それを探る手段として、【過去生】という言葉にぶち当たりました。
今日は、そのことを一緒に調べてみようと思います。
過去生とは?
過去世(かこぜ)・・・あるいは過去生(かこせい)、前世(ぜんせ)とも言う。
今回、生まれてくる前に、過去、別の名前、別の地域で生きた人生のこと。
転生輪廻を繰り返している私たちには、無数の過去世があります。
しかし、新たに生まれてくる時、過去世の記憶はありません。
過去世の影響が、先天的な才能や身体的特徴、家庭環境などに現れることはありますが、「記憶」としては、一旦、消されてしまうようです。(あの世に還ると、ある程度、戻るようですが)。
それは、一見不幸なことにも思えますが、実は非常に公平なルールです。
「過去世は過去世。今世は今世」であり、過去世で偉大な業績を遺した人も、不幸な人生を送った人も、再び平等なスタートラインに立ち、心(魂)の実力を存分に発揮し、新たな知識と経験を得ることができるからです。【※今、生きている人生を「今世」、今世を終えた後の、未来の別の人生を「来世(未来世)」と言います。】
「過去世は存在しない」
「過去世は存在する」
あなたは、どちらの考えですか?
どちらの意見にも一定の正当性はあると言って良いのではないかと思えます。
ただし「過去世は存在しない」という見方の中にも、“並行現実”に存在する様々な自分という存在があり、潜在意識を通じ今の自分に常に影響を及ぼしている、その中には時系列に照らすと過去世と思しき時代の存在も認められる可能性は大いにあり得る、という論は否定出来ないのではないかと思います。
最近ではむしろこちらの論の方が信憑性を帯びて来ようかと思います。
何故ならばそれは“過去”と言っても現在に影響を及ぼしている以上、過ぎ去ってしまった今ではなく、進行形で影響を及ぼしつつある今だからですね。
過去世を過ぎ去った過去のものと考えるとそんなのどうだっていいじゃん、ということになるのですが、潜在意識に働きかけて今の自分の行動パターンに常に影響を及ぼしている、とするならば無視出来る問題でもないでしょう。
ある恋人同士のケースでは、常に分かり合いたいのに不本意な衝突が起きてしまうのは、お互いの過去世のトラウマに起因していることが大きいと考えて、相手の“過去世ヒーリング”というものには常に意識を向けています。
過去生の記憶はありますか?
多くの方は【ない】と答えられることでしょう。
しかし、まれに過去生の記憶を持って生まれた子供【に多い】の話など、聞かれたこともおありでしょう。
下記はそういう経験について扱っています。
母親の胎内にいた時や出産時を記憶している子供たちがいるという。
そうした胎内記憶にまつわる調査は1999年より本格化したが、驚くのは胎内記憶の調査中に、過去生記憶を語り始める子供たちもいるということだ。
例えば、3才くらいまで自分を“ヤマガタヒロシ”と名乗っていた男の子や、「アメリカに住んでいた、芝生のある家だった」という子が。
ほかには、過去生では今と同じ小学3年生で車にひかれて死んでしまったという女の子も。
「黒い車が信号を無視して飛び込んできて、周りにはたくさんの車が信号待ちをしていた。その時、私は青い習字箱を持っていた。
だから、今度は(今生では)大きい横断歩道は気をつけているの」というのだ。
世界における胎内記憶研究の第一人者である産婦人科医の池川明さんは言う。
「過去生記憶は、生まれ変わりや魂の存在を前提としており、いろいろな議論があると思います。
ですが、これらの記憶も、出生前後の記憶の一種として、持って生まれた子供がいるということは事実なのです。
子供たちの意識のあり方を考える上で、興味深い例だと考えています」
過去生記憶が強く残った人には、ある共通点があると話すのは、超心理学の専門家・大門正幸さんだ。
「過去生記憶を持つ子にはパターンがあります。2~5才くらいで過去生について語り出し、その話と符号するような振る舞いを見せるのですが、7才くらいまでにその記憶は薄れ出し、成人まで残る例はあまりない、というものです」
ではなぜ、過去生記憶を持って生まれてくるのか。
「世界各国のデータを総合的に見ると、人の意識は肉体を超越していて、いわば『生まれ変わり』のようなメカニズムが存在すると考えるのがいちばん自然な解釈のように思います」(大門さん)
思い出される過去生は、非業の死を遂げていたり、幼い子供を残して死ぬなど、やり残したことがある場合がかなりの割合を占める。
「つまり、衝撃的な死のトラウマによって、本来消去されるべき記憶が次の生に持ち越されたといえるかもしれません」(大門さん)
※女性セブン2014年9月4日号
過去生を知る大きな手掛かり~夢
よく、勧められていてお金のかからない方法が【夢日記をつけること】です。
以下は夢日記で過去生を知り、恩恵を受けられた方の体験です。
いったい前世でなにがあったんだろう?前世よりも今の人生のことで頭がいっぱいだったので前世なんてどうでもいいよ、というかんじだったのですがこのままこの話をほおってはおけないという気持ちになり夢日記をつけて、ドリームワークをはじめることにしました。ドリームワークで前世で何があったのかずっと続く私の体調不良について自分自身で解明することにしたのです。きっかけはユングやエドガー・ケイシーの本を読んだことですね。眠っている間に人は潜在意識にアクセスしてさまざまなことを体験しています。夢をうまく活用することができれば霊能力のある人などに頼らなくても前世やハイアーセルフ、ガイドからのメッセージなどを自分で知ることができるはずです。そう思ってはじめたドリームワークを今にいたるまでずーっと続けているわけですが、最初は大変でした。。。そうしたアドバイスやメッセージは毎日見る夢の中で伝えられることが多いので私としては、夢日記をつけることをお勧めしますね。やはり起きているときというのは顕在意識(エゴ)の部分が強く働いているのでガイドさんがあれやこれやのメッセージを送っても無視されてしまったり、気づかずに過ごしてしまうことが多いのです。眠っているときのほうが余計な意識が働いてない分伝えやすいんですね。これはガイドさんだけでなく自身のハイアーセルフからのメッセージもそうです。ですが、夢というのは訓練しないとすぐに忘れてしまうんですよねー。ここが難しいところではあります。ほかにもシンクロニシティという形で必要なメッセージを送ってくれたりその日出会った人の口を借りて言葉で伝えてもらったり伝わるかどうかはその本人の受け取り方次第でもありますがガイドさんは根気よく気づきの波動を毎日いろいろな形で送ってくれているのです
過去生と転生
肉体は死んでも、魂が輪廻転生して生まれ変わるということをわかりやすく説明すると、
物体には経年寿命があけれど、データ【記憶】は、連綿と続いていくということを考えてみてください。
例えば、携帯電話は、使っているうちに古くなって故障が起きて動作しにくくなったり、傷がついたりするので、定期的に買い換えます。
ただ、たいていの人は機種変更しても、アドレス帳の画像データは引き継ぎますよね。
魂もこれと同じで、人間の肉体も経年寿命がありますが、魂の中のデータは、ボディーが変わっても、引き継がれます。
生まれ変わるごとに過去の記憶がなくなるのは、これから体験することをより新鮮に感じることができるようにです。
そして個々人のデータは無意識の図書館、アカシックレコードに蓄積されていき、個々の魂と共にアカシックレコードのレベルもどんどんアップするんですね。
過去生とカルマの考え方とカルマの昇華~佐藤友美著 魂が喜ぶ生き方より抜粋~
カルマというと、因果応報というイメージが強いですが、宇宙的な意識で見ると、やったことがかえってくるという考え方ではなく、両方を経験するということが、地球で成長をするためのルールになっていると考えることもできます。
この世界には極性があります。
極性があるということは、1つの出来事や物について、必ず表と裏の面や上下、左右おいうような2つの反対の側面が存在するということになります。この世界で何かを学ぶということは、その2つの側面を学ぶということです。
両極を学ぶことで中庸を理解す、極性のない状態になることができなければ、それを学んだとは言えないのです。
極性とは、例えば過剰と欠乏、美しさと醜さというように、どちらに振れすぎてもバランスの悪い状態のことです。
それらを体験し、その後、それを手放した中庸を理解することで、学びが終了することになっています。
不思議な感じがするかもしれませんが、過剰と欠乏、美しさと醜さなどの心のこだわりになっているものは、どちらも実は、同じエネルギーであり、心がどちらかの局にこだわりや執着を起こしている状態なのです。
ですから、中庸とは、そのエネルギーの極に振れず、ちょうどよくバランスのとれた部分に心があるということになります。
それは、気づきや悟りともいわれ、囚われから解放された状態のことを指し、心が無理をしていない穏やかな状態でもあります。
例えば、美しさに執着することも、醜さを受け入れて自分を否定することも、間違いであり、愁眉を手放したところで、囚われから自由になり、その人の本当の美しさが表れてきたというようなことです。両極の調和が美しさを生み出します。
それは、美しさにこだわりすぎても、醜さにこだわりすぎても、、本当の美しさはみえないというとても、シンプルな悟りとなります。
このようなことを学ぶために、人生ではしばしば両極の立場を経験することがあります。
あまり、気持ちのいい言葉ではありませんが、加害者と被害者という関係は、人生の中でよく立場が入れ替わるものの一つになります。
いじめっ子がいじめられたり、大人になったらいじめられていた人が成功し、いじめていた人はなんとなくパッとしないということはよく聞くことです。
長い目で見れば、人生は公平になるように計画されています。
それらを、因果応報や罰が当たるというように解釈することもできます。
ですが、人生とは実は非常に個人的な経験で会って、私たちはただ、両極を経験し、成長するために存在しているだけなのです。
過去生からのカルマは因果応報ではない
また、両極を知るために一つの人生だけではなく、いくつかの人生を使って経験するようになっている場合もあります。
これが、過去生と転生です。
それは、生まれながらの立場を使って学ばなければならないようなもので、この人生では奴隷となって従属を学び、この人生では、王族となって支配を学ぶというような感じです。
でうから、カルマは因果応報ではなく、個人の計画の仲に両極の経験が存在すると、いうだけなのです。
そして、最終的にはさまざまな極性を経験し、中庸という悟りを繰り返し、すべてを光に変えたとき、スピリットとしての尊厳と肉体を持った状態でいきるということが学びの一つの流れになるのです。
もし、あなたの人生がとてもつらくて大変だったとしても、決して過去生などで罪を犯したとか、悪い人間だったとかそんなことではありません。
おそらく、スピリットは、あなたがそれを乗り越えられるだけの強さを持っていると信頼してそのような人生にしたのだと思います。
そのような経験が魂の成長において必要だっただけなのです。
そして、おそらくこの人生で癒せることはたくさんあるはずなので、安心してください。
どのようなカルマが人生に横たわっていたとしても、それは人間としての評価とは一切関係ないことを知っておきましょう。
カルマは決して悪いものではありません。
何故なら、自己実現の力を発揮するためにカルマの学びが、あなたを育ててきたからです。